ライナー・リーン、アレクサンダー・マイヤーとの会話
(2015年)

“Rainer Riehn in conversation with Alexander Meyer, 14 May 2015”
Liner notes of the LP “Rainer Riehn – Chants de Maldoror (Electronic Music from the Institute of Sonology, Utrecht, 1965-71)”, Label: Edition Telemark, Catalog No: 314.09
May 14, 2015

アレクサンダー・マイヤー: なぜ電子音楽を作りたいと思ったんですか? また、どのような経緯でユトレヒトに落ち着くことになったんですか?

ライナー・リーン: あの頃、西部ドイツ放送(WDR)で夜に流れていた音楽番組があり、ヘルベルト・アイメルト(ドイツの作曲家、音楽学者。初代ケルン電子音楽スタジオ所長)とオットー・トメク(ドイツのクラシック音楽プロデューサー)が監修した、とても良い番組でした。この番組を端からチェックして、そのおかげで、いまで言うところの”社会性”を私は身につけたんです。ほとんどすべて聴きましたよ。アイメルトとトメクがケルンに連れてきた、まだ駆け出しのハインツ=クラウス・メッツガーが担当した回さえもです。毎週決まった時間の放送で、あらゆるジャンルの作曲家や作曲家以外の批評家なども交え、交代で担当していました。私にはそれが面白かったんです。シュトックハウゼンが『Gesang der junglinge(少年の歌)』を流し、アイメルトは『Epitaph fur Aikichi Kuboyama(久保山愛吉の墓碑銘)』を流しました。その当時ケルンにいたケーニッヒの作品も聴きました。
1962年に高校を卒業してからデュッセルドルフの音楽学校に進学しました。デュッセルドルフ市が出していた、ダルムシュタット夏季現代音楽講習会のための奨学生募集の告知を見つけ、ただちに応募し、奨学金をもらいました。そんな訳で、1962年に初めてダルムシュタットに行ったんです。デュッセルドルフの後は、マインツにある国立音楽大学へ行きました。それまでピアノのレッスンは全く受けたことがなかったんですが、入学するにはピアノを弾けるのが必須でした。ほぼ何の訓練もないままそこに行き、ちょっとの間だけピアノのレッスンを受け、もちろんそれはちゃんとしたものではありませんでしたが、とにかく入学試験をパスすることができました。

マイヤー: 実際にはどんな音楽的バックグラウンドを持っていたんですか?

リーン: 本当に何もなかったんです。ただ、一度も会ったことのない母方の祖父はピアノの先生でした。私はダンツィヒ(ポーランド)で生まれ、私たち家族は1945年の1月に戦火を逃れるため故郷を離れ、イェーナの近くにあるテューリンゲン州ドルンドルフにまずたどり着きました。当然ながら、音楽について何の訓練を受ける機会もありませんでした。私たちにはお金もピアノもなかったんです。それでも、いつも音楽に興味がありましたし、音楽に関わる何かがしたいと思っていました。後に私たちはテューリンゲンを離れました。というのは、すでにテューリンゲンの学校を出ていた私の兄は(私には兄と姉が一人ずついます)ロシア語が堪能だったため、ロシア人たちにモスクワへ連れて行かれるところだったんです。母はそうしたくなかったので、私と兄を連れて西側へ、まずバイエルンへ逃げました。私たちは国境警備隊の発砲を受けながらバンベルク近くの国境を越えました。結構な難行で、弾丸が飛ぶなか、私たちは森を抜け、茂みを這って進み、しかし無傷でバンベルクにたどり着きました。そこからアウクスブルクに行きましたが、もっと西へ行ったほうが仕事に就ける見込みが高かったので、母はライン地方かルール地方へ移りたがりました。それで最終的にルール地方のゲルゼンキルヘンに落ち着いたんです。祖母と姉はテューリンゲンに残っていましたが、1年後に私たちと合流しました。ある日、祖母が姉へのプレゼントとしてピアノを手に入れ、我が家にピアノがやって来ました。そのピアノで私はレッスンを受けたんですが、さっき言ったように上手いとはとても言えない腕でした。それでもともかくマインツの国立音楽大学には受かったんです。大学では音楽教育について教わり、母が望んだことでもあったので、音楽教師になるはずでした。しかしある時点で私には合っていないと感じたため、マインツ大学に転校し、音楽学へ専攻を変えました。

1962年に初めてダルムシュタットへ行ってからは、毎年、夏季現代音楽講習会に参加するようになり、それを通じて現代音楽に関わるようになりました。特にリゲティ、シュトックハウゼン、そしてブーレーズに感銘を受けました。1965年にはハインツ=クラウス・メッツガーと出会い、彼はケルンからの知り合いだったゴットフリード・ミヒャエル・ケーニッヒを紹介してくれました。私は電子音楽を作りたいと、ケーニッヒに話したんです。すると夏の講習会の後、ただちにそれは実現しました。ユトレヒト大学で秋からはじまるコースに、インスティテュート・オブ・ソノロジー(コンピューター音楽の研究と教育を目的にオランダで設立された学会)が提携したんです。私はそれに応募し、ユトレヒトに行きました。初めはユトレヒト近郊の、ガウディアムス財団という音楽財団の施設に住みました。そこには小さなスタジオがありましたが、最善とはいえないものでした。まずは大きなスタジオを使う準備として、そこでの課題を与えられたんです。結構な数の課題でした。初めのうちはきちんとこなそうとしましたが、やがて機材がどれも、まともに機能しないことに気がつきました。例えば決められたことを再現するのが課題だったとして、何度かそれを試した後で、機材がもはや最初の状態から狂ってしまっている……。何をやっても何らかの原因で不正確な結果に終わりました。しまいに「なんでこんなことをしなきゃならないんだ? どのみちおかしな結果しか得られないのに」と思いました。それで代わりに、与えられた素材を使って好きな実験を好きなようにやろうと決めて、それを続けたんです。課題はやりませんでしたが、私の考えでは、よい結果を得られたと思っています。

マイヤー: いまの話は、すべて小さなスタジオでのことですか?

リーン: そう、ガウディアムスのスタジオです。その後、ユトレヒトの大きなスタジオに潜り込みました。そこでも好き勝手にやる方針を変えずに、さまざまな実験を行いました。「でたらめなセットアップ」と自分で呼んでいた実験をおもに試し、それが素晴らしい結果を生みました。やがてユトレヒト近くのブニクに引っ越すと、毎日スタジオへ自転車で行き、あるときからは昼も夜も仕事をすることを許されたんです。鍵を借りて、一人きりでスタジオを使わせてもらいました。ときには一睡もせず、徹夜で自分の実験をしました。私はそこで完全な素材のライブラリーを作り上げ、以降それが、自作のために使用する素材の中核になりました。

ゴットフリード・ミヒャエル・ケーニッヒとの間で、こんなことがありました。さきほど言ったように私はいろんな実験をしていましたが、その中心は「でたらめなセットアップ」と呼んでいるものでした。ご存知のとおりリングモジュレーターは、二つの異なる素材を組み合わせて、新しい何かを生み出すものです。二つのインプットがあり、そこにおのおの異なる素材が入力されるよう繋がなければなりません。あるとき私は、同じ素材を単純に分けて入力するとどうなるんだろう、と思いました。結果は全く素晴らしいものでした。私は技術者抜きで仕事をすることを原則としていたんですが、それは自分で何ごとも発見したかったからです。ほかのみんな、ケーニッヒや技術者たちが家に帰った後、私はスタジオに残り作業をしました。ある日、このリングモジュレーターへの「でたらめなセットアップ」が、もはや機能しないことに気がつきました。その日、ケーニッヒ以外は帰ってしまってスタジオに誰もいなかったので、ケーニッヒを呼んで、「ケーニッヒさん、これが機能しなくなったんですが」と尋ねました。それを見た彼は「そりゃ動かないよ、だって同じ素材を入力してるじゃないか」と答えました。「でもいままでちゃんと動いてて、すごい結果を生んでいたんです! それがだめになってしまった」と返すと、「動かないものは動かないさ」と彼は言いました。私にはこの秘密を解き明かすことはできませんでした。しばらく経ってから、ペーター・ウィーゼンタナー(ドイツの電子音楽家)に、この件について、すなわち同じ素材を入力して新たな結果が得られたことについて、どう説明できるか聞く機会を得ました。彼が言ったのは、二つのインプットの同期が取れていなかったのではないかということでした。それらは別々のアウトプットを持っていて、別の素材として扱われたのではないか、と。それはすぐに腑に落ちました。

ほかにもいろんな実験をしました。例えば空のオーディオテープを使った実験です。テープは空のはずですが、いつもたくさんの何かしらが聴き取れました。ある日、空のテープを再生してみて、たくさんの音が乗っていることに気がついたんです。これはテープを巻き取る作業が原因で、それによって磁気を帯びてクリック音やポップ音が生じるのです。私はそういったテープを使って作業を行い、やはり予期せぬ結果を得ることができました。ほかにも、スタジオにあったリバーブやあらゆる機材を使って実験をしました。言うまでもなくこのスタジオの方が良いスタジオで、ミキシングボードは電圧制御式でした。そのことはもっと多くの選択肢を与えてくれました。
後の私の作品のすべては、このときに作った素材からできています。これら素材は、当時、母が住んでいたエッセンに私が持ち帰りました。母が生きている間は地下室に保管されていたんですが、彼女が死んだ後、その部屋を引き払わなければならなくなりました。私は、知人の会社の倉庫にそれらを移しましたが、その会社は別の女性によって引き継がれることになっていました。その頃、私はすでにベルリンに移っており、倉庫のレンタル料をしばらく滞納してしまい、ついにはその女性から「あなたのものを処分した」という手紙を受け取りました。私がアンサンブル・ムジカ・ネガティヴァ(Ensemble Musica Negativa)とともに行った演奏を含んだ、膨大な財産でした。実際に彼女がすべてを処分してしまったのかどうか、私は知りません。彼女は、ガラクタしかなかったと、書いてよこしました。彼女は全くその価値を理解していませんでした。

マイヤー: ユトレヒトの後は、どのスタジオにいたんですか?

リーン: ミュンヘンのエディションモダン(レコードレーベル)にいたことはあります。あとは……バイエルン放送にも。ただそこで何かやったかどうか、憶えていません。フランクフルトではペーター・ウィーゼンタナーのところにいました。ユトレヒトから戻ったとき、私たちは(ハインツ=クラウス・メッツガーとライナー・リーン)エッセンの母のところにしばらく住んでいました。しかしある日こう自問したんです。エッセンは音楽家にふさわしい場所なのだろうか? まあ、そういうわけで、どこか別の場所へ行かなければと決心しました。何よりも私たちは収入を確保しなければなりませんでした。それで私はミュンヘンへ行こうと提案しました。

そこには『Text + Kritik』という文芸誌がありました。それなら、作曲家を対象に似たような雑誌を立ち上げたらどうなんだろうと思ったんです。ミュンヘンにはすでに知り合いが何人かいて、信頼できるグループもありました。私たちはいくつかの先に当たりました。最初はカール・ハンザー出版社でやりたかったんです。というのはそこのディレクターをよく知っていたからでしたが、彼が私たちに言ったのは、その雑誌はうちの出版計画には合わないだろう、ということでした。いつだって出版社は断るときにそう言うんです、出版計画に合わないって。彼らもその後に音楽本を出すことになったんですがね。彼は『Text + Kritik』へ行くように勧め、まずは『Text + Kritik』から出版されていたアルノ・シュミット(作家)作品の編集者であるヨルグ・ドリューズ教授を紹介してくれました。そして、教授が『Text + Kritik』と私たちを繋げてくれました。こうして私たちは『Musik-Konzepte(音楽—コンセプト)』(リーンがメッツガーとともに立ち上げた前衛音楽誌)の創刊へと漕ぎつけたんです。

私のアンサンブルであるアンサンブル・ムジカ・ネガティヴァもユトレヒトで実現したことのひとつです。インスティテュート・オブ・ソノロジーはまだあの頃、ユトレヒト大学と提携していました。大学には、現代音楽のコンサートをやりたがっている合唱団がいて、彼らはハンス・オッテ(作曲家)をユトレヒトに招きたがっていました。オッテは合唱とパーカッションのための曲をすでに書いていました。ただ合唱団はどうしてもそれを歌いこなせず、演奏者たちも演奏に苦心していました。ある日、彼らのエンジニアが、私がこれを引き取ってリハーサルできないかと言ってきました。「うん、まあ、やれなくはないねぇ」と私は答え、そんな訳で、私が指揮をすることになり、コンサートは行われ、それなりの成功を収めました。

それはちょうどドイツ・グラモフォン(レコードレーベル)がアバンギャルドシリーズをリリースしていた時期でした。夜はいつも一人でスタジオにいたので、もちろん電話が鳴ることもあり、そんなときは私が出ていました。ある日、ドイツ・グラモフォンが電話をかけて来ました。すでにもう自分の『Chants de Maldoror(マルドロールの歌)』がレコードになると分かっていたか、その電話で知らされたか、憶えていませんが、ともかく電話口でプロデューサーに尋ねたんです、「もしレコードを作ると同意したら、実際のところいくら払ってくれますか?」と。ミュージシャン一人につき222マルク払うというのが、彼の答えでした。「じゃあ、何かまとめてみましょう」と私は答えました。

それから私はメッツガーに(そのときすでに私たちは一緒に暮らしていました)、何をやるべきだろう、と相談しました。彼はジョン・ケージとディーター・シュネーベルを薦めました。私はドイツ・グラモフォンにそのとおりその二人を提案しました。ミュージシャンとスタジオの手配は自分でやらなければなりませんでした。だいたいが私はミュージシャンを一人も抱えていませんでした。ただ、なんとかオランダ管楽アンサンブルとコンタクトを取ることができました。コンセルトヘボウ管弦楽団というメジャーなオーケストラのメンバーたちで構成されたアンサンブルです。私は余計な説明は抜きに、これに関わりたいかどうかとだけ尋ねました。何人かは私も顔だけは知っているメンバーでした。あれは本当に実りのあるコラボレーションでした。私はヒルフェルスムにあるオランダラジオ局のスタジオを手配し、それからコンセルトヘボウ(アムステルダムのコンサートホール)でリハーサルを行い、すべてが完璧でした。私たちはそこでケージの作品をレコーディングし、ケルンのエレクトローラ(レコードレーベル)のスタジオでシュネーベルの作品を録音しました。そしてこれが、アンサンブル・ムジカ・ネガティヴァの発端となったのでした。私は徐々にあらゆるジャンルのコンサートをやるようになりました。けれどもメッツガーと『Musik-Konzepte(音楽—コンセプト)』を始めたとき、両立はできないということが明らかになりました。どちらかを諦めなければならないとしたら、それはアンサンブルのほうだったんです。

マイヤー: あなたが、ある程度自由に、夜のスタジオを使えたのは分かりました。普通はスタジオを使うには、きちんと予約しなければならなかったんですか?

リーン: そうですね、学生たち、もちろん私も当時は学生だったんですが、彼らはスタジオを自分で手配しなければなりませんでした。どの時間に誰が使っているかのスケジュール表がありましたね。

マイヤー: 何人ぐらい学生がいたんですか?

リーン: 私には分からなかったですね。コンピューターの授業を取っていなかったんで。まあ、学校では目立たないようにしていました。たしかにメッツガーと私はちょっと変わったことを次から次へしていたとは思いますが、ただはっきり言っておきたいのは、ユトレヒトにいたあの頃が、人生でもっとも幸せでした! これについてはメッツガーかケーニッヒか誰だかに異議を唱えられたこともありますよ。でも、私はそう感じています。なんといっても、昼も夜も作業ができたんです。私にとって、それが理想なんです。

私の電子音楽作品に関連して、もうひとつ別の話をしたいと思います。ミュンヘンの後、私たちはフランクフルトへ行きました。フランクフルト歌劇場のドラマティック・アドバイザー(プログラムを決める助けをする役職)のトップとしてのポジションをオファーされたからです。総監督はガリー・ベルティーニでした。彼が私たちを指名したんです。毎年オペラの新作をかけたいというのが彼の希望でした。その頃、ベルティーニはケルンWDR交響楽団の首席指揮者でもあり、少し前にはマウリシオ・カーゲルの交響曲を初演していました。それはフランス革命200周年のための曲でした。ケルンに行ってカーゲルにフランス革命についてのオペラを書いてもらえないか頼んできて欲しいと、ベルティーニは私たちに言いました。ケルン・フィルハーモニーでカーゲルの作品のプレミアがあったんです。私たちは控室を訪ね、お話ししたいと切り出しました。すぐさまカーゲルは激昂しました。それは以前、メッツガーがカーゲルを批判したからでした。初期の頃、メッツガーは彼をサポートしていたんですが、それはもはや救いになりませんでした。彼は怒りをぶちまけました。侮辱されることは決して許せないし、山ほどやらないとならないことがあり、あらゆるオペラハウスから依頼も来ている、だからやらないと。こうしてこの案は消えました。
翌日、私たちはフランクフルトへ引き返し、その途中、帰りの電車のなかでメッツガーに「さて、ベルティーニに代案を出さなきゃならないな」と言いました。私の案は、ケージにオペラを書いてもらうことでした。そこで私たちはケージに連絡を取り、彼はそれを受けてくれました(フランクフルト歌劇場で1987年に初演された『ユーロペラ』IとII)。こうしてケージがフランクフルトにやって来ました。

さて、ここからがこの話の本題なんです。彼は舞台のディレクションもして、すべてをコントロールしたがりました。ある日、彼は、私が作ったものを何か聴きたい、と言いました。それで私はヘッセン放送局のスタジオを手配し、ユトレヒトから何本かテープを持ってきて彼に聴かせました。
そのうちのひとつは『Apres une ecoute de Fontana Mix(フォンタナ・ミックスを聴いた後で)』で、これはケージの『Fontana Mix(フォンタナ・ミックス)』をリングモジュレーターで加工したものでした。まず私はそれ以外の作品、『Chants de Maldoror(マルドロールの歌)』などを聴かせました。ご存知のとおり、ケージは音楽の言語的な面に反対していた人物です。そして、私の曲はどれも言語的な面が強すぎるという感想でした。「そりゃ、僕はケージではないですからね」と私は言いました。最後に『Apres une ecoute de Fontana Mix(フォンタナ・ミックスを聴いた後で)』が流れました。すると彼はそれに反応し言ったんです。「君はむしろ、自分で曲を作った方が良かったんじゃないかね」と! まさに彼がゼロからではなく、いろんな作品を使ってオペラを書き上げたときのことでした。彼のオペラは結局、何百もの断片のコラージュに過ぎなかったんです。それなのに、彼のたったひとつの作品を私が使うことは許さないと言ったんです。その瞬間、ある意味、彼の秘密があらわになりました。彼は何をやっても許されます。しかしほかの人が何かをやったときにはそれを弾糾するのです。それは当時の私にはショックでした。

どちらかといえば、私の作品の多くは散文、あるいは詩に関係しています。『Chants de Maldoror(マルドロールの歌)』や『Shatten von Liedern und der Leidenschaft(歌の影、そして情熱の声)』だとか。私はいつも、音楽に関連する用語がふくまれている一文を選び、自作のタイトルにしています。ときには少し変更を加えることもあります。例えば、もとになったロートレアモンの小説のタイトルは『Les Chants de Maldoror』でした。詩や文学的なことへの参照は、私にとっては非常に重要なことです。
ところで私はもうひとつ小さなエピソードを話したいと思います。この話はここでの話とほとんど関係ないんですが、とにかく私には重要なことなので話します。私のエッセイ『Kunst und Kot(アートと糞)』にはいくつかのバージョンがあります。ここに載っているものが最終版で、最初のバージョンは『Musik-Konzepte(音楽—コンセプト)』に掲載されたものでした。
それを批判した批評家がいましたが、というより彼はエッセイが何で構成されているのか分かっていませんでした。それはすべて引用でできていて、もちろんこの批評家はそれが分かっていませんでした。彼はエッセイの終わり近くに出てきた「音楽の哲学は、音楽それ自体よりも重要である」という一文をそっくりそのまま返し、私を批判しました。もちろん彼は、その言葉が私によるものではないことを知りませんでしたが、しかし私は、それを自分の言葉であるとみなしています。ここが重要なことです。この言葉に関して大切なことは、私は完全にこれに同意しているということで、だから発表したかったんです。

マイヤー: 当初私は、あのエッセイが引用で構成されていることを隠しておきたいのだと思っていたんですが。

リーン: 種が明かされようが気にしません。それどころか誰かが私がそれを言ったと書いたとしても……それは私による言葉ではないですが、私の意見なんです。これは実際にはベンヤミンのアイデアですが、彼は引用だけでできた本を書きたがっていました。それは私がやりたかったことでもあります。私は、引用だけで構成された音楽も書きました。2台のピアノのための作品で、ランボーにちなみ 『La musique savante manque a notre desir(学術的な音楽には私たちの欲望が欠如している)』と詩的なタイトルがついています。私はこんなふうにものを作るんです。

(終わり)